喜美恵


 長年連れ添った妻が逝った。八十路を越えて老衰でこの世を去った喜美恵は幸せだったろうか。肉体を離れるその瞬間にあれは何を思ったのだろうか。私の顔はちゃんと見えていただろうか。

 私の涙は喜美恵のさらさらに乾いた皮膚に伝ったが、それをあれが最後に感じ取ることができたのであれば――いや、そんなことはもうどうでもよい。喜美恵はもういない。

 私もそう長くはないだろう。妻の死は十分に予測できた事態であったはずなのに、こうして葬式の後始末をしながらも、喜美恵がまだ傍らにいるように思われ、何やら頭が混乱しているようだった。

 つい先刻も、傍らの喜美恵に数分ほど語りかけたのち、ようやく異変に気がつく有様であった。これを痴呆というのだろうか。意識は時折途切れ、まるで薄皮を隔てているように覚束ない。頭の中心がそうであるから、視覚やら聴覚やらは言うまでもあるまい。
 そういえば昔、眠り惚けて現実と夢の境目で浮浪していた時も、丁度このような状態であった気がする。

 妻は一年前、アルツハイマー病と診断された。病状はそれほど進行することはなかったが快復に向かうことも決してなく、現実と向こうを何度も行ったり来たりしているようだった。

 半年前、既に妻は寝たきりになっていたが、何を思ったか私が部屋に入ってくるのを見るや否やぼろぼろと涙を流し始めた。どうしたどこか痛むのかと私が尋ねると妻はゴホゴホと咳き込んで「ごめんなさいごめんなさい私はあなたを裏切ったの」などと訳の分からないことを口走った。

 聞くと我々がまだ四十台だった頃、妻は他の男を愛していたのだという。要は浮気をしていたということであった。なんだそんなことかとそのときは笑ったが、今の今まで妻のその告白は私の心を締め付けていた。

 喜美恵はその頃には日常的に狂言を吐いたり意味不明なことを叫びだしたりしていたものだから、その告白自体真偽は永遠に闇の中である。

 しかしそんなことはもうどうでもよいのだ。八十年生き延びてきても世は相変わらずわからないことだらけで、悟ったのは不変のものなど有り得ないということのみである。無常ということこそが今の私の全てであり、また世の中の一つの真理でもあるのだろう。

 私は今生きているのだろうか死んでいるのだろうか。これは現実なのだろうか夢なのだろうか。意識という柵が外れた今その境界線は酷く曖昧である。

 しかし私はこれだけは不変であると、永遠であると誓う。おそらくそれすら消え去ってしまうことはわかりきっているが、私はここに誓いを立てる。

 死ぬまで喜美恵を愛し、想い続けることを。せめて私の中で、喜美恵が永遠であることを。




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