母の面影


 僕は母の顔を知らず、父の手一つで育てられた。父は母の話は何一つしてくれなかった。離婚なのか、死別なのか。それすら教えてはくれなかった。そんな父が去年癌で死ぬ間際に一言だけ、こんなことを言った。

「もし生きていたら、母さんの右の掌には、父さんが付けた火傷の跡が残っているはずだ」

 父は肝心なことは何も言わずに、一生残る傷を母に付けたことをひたすら悔いたまま逝った。僕は父が死んだ後も、母のことを探す気にはならなかった。本当に僕のことを思っているのなら、向こうから名乗ってくるはずだから。


 ある日、公園のベンチにぼうっと座っていたら、突然声を掛けられた。
「こんにちは」
 四十歳くらいのおばさんだった。どこか見覚えのある顔だったが、僕は返事をしなかった。きっと宗教の人だ。
「ちょっとお話したいんだけど、いいかしら」
「……」
 僕は無視してケータイを取り出そうとしたが、おばさんは強引に僕の隣に腰掛けてきた。
「ちょ、なんですか」

「あなたのお母さんになりたいの」

 おばさんは真顔でそう言った。
「宗教ならお断りなんですけ」
「違うの」
 おばさんは続けた。

「私は小さい頃に息子を亡くしてね」

「……」
「かわいかった。小さくって、目がくりくりしててね」
 おばさんは遠くの方を見つめながら、今は亡き息子の自慢話を始めた。
 その間、僕は去る訳にもいかず黙って聞いていた。確かにそれは子を持つ母の顔だったが、目の前のおばさんの子供はもうこの世にはいないのだ。

「……お子さんのことはよくわかりました。でも、僕にどうしろって言うんです」
「多分、生きていたらちょうどあなたくらいの歳だと思うのね」
「それで」
「あなたによく似てた」

 ……

「ちょっと、手を見せてもらってもいいですか」
「手?」
 おばさんは始め不思議そうに眉をひそめたが、すぐに笑顔になった。
「ええ、いいわ。占いできるの」
「いや、そうじゃなくて」
 右の掌を見る。
「……綺麗な手ですね」
「ふふ、ありがとう」
 これといった傷跡もなければ、しわも驚くほど少ない。それはちょっと綺麗過ぎるくらいに綺麗な手だった。
「長生きできるかしら?」
 そう言っておばさんは少女のように無邪気に笑った。僕は彼女の手をしばらく見つめていた。そんな僕を見て、おばさんは不思議そうな顔をした。
「どうかした?」

「ごめんなさい。僕はやっぱりあなたの息子にはなれません」

 悲しみに歪むと思われたおばさんの顔は、何故かまだ笑っていた。
「そう」
 彼女はそれ以上何も言わず、微笑み、そうして右の手を差し出した。ぎゅっと握ったおばさんの手はひどく温かかった。

 握手を終えると、おばさんは去っていった。去ったかと思うと、すぐ近くで僕と同じ年頃の青年を見つけ、さっそく声を掛けていた。
 僕は再びベンチに腰を降ろし、空を見つめた。澄み切った青い空だった。じっと見ていると、思わず吸い込まれそうになったので、僕は少し伸びをしてその場を離れた。



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